「暴力脱獄」と実存主義 / "Cool Hand Luke" and Existentialism
『暴力脱獄』(原題:Cool Hand Luke)を見ました。
町山智浩さんのラジオでの紹介によると、
「Paul Newmanが亡くなった時にアメリカのメディアは皆この映画のラストシーンを流した」
「Paul Newmanの最高傑作」
「実存主義の映画」
気になりました。
戦場で勇敢に戦い多くの勲章を得、一時は軍曹にまで昇進しながら一兵卒として除隊された男ルーク・ジャクソン。彼はある晩酔ってパーキングメーターを損壊した罪で、フロリダの刑務所に収監される。
刑務所でルークを待っていたのは、過酷な労働や体罰で囚人たちを支配しようとする所長とその部下の看守たちだった。ルークはそこでも権力に屈せず、あくまで反体制の姿勢を貫こうとする。やがてルークは刑務所の顔役ドラグラインを初めとする囚人たちの尊敬を集め、彼らの偶像的存在になっていく。だが、それは同時に刑務所にとってルークが看過できない存在になったのと同じ意味だった。...
見て感じたのは「これはアメリカンニューシネマじゃないか」でした。
「この世界のどこにも正義も救いもないじゃないか」
「権力、体制側の人間はご都合主義の偽善者だ」
と、この世界に失望した虚無感はアメリカンニューシネマの感覚だと思うのです。
本作は1967年公開。ベトナム戦争によって国民は政府が信用できなくなった頃なのでしょうか。
実存主義について調べてみました。
私自身は哲学を学んだことがなく、Wikipediaの概要等を見てもすぐには理解するのが難しかったです。
しかし、この難しさは前提となるコンテキストが日本人にはないからだと思いました。
「実存主義とは何か?」以前にそもそも「本質って何?」だったのです。
私にとってヒントになったのは、以前、西洋絵画と寓意について調べていた際に読んだ一節をでした。
「最後の晩餐」の主題では、テーブルの上に必ずパン、ワイン、それに鳥肉や果物が置かれている。だが、中世絵画の場合、これらのパンやワイングラスは、量や質の感覚によって描写されることは全くない。なぜならば、キリスト教の教義によれば、パンはキリストの肉、ワインはキリストの血であるとされており、食事も現実の食事ではなく、キリストの贖罪にあずかる儀式であり、パンもワインも現実のパンやワインというよりは神の血と体、つまり聖体の「象徴」だからである。
キリスト教では、世界に存在するものはそれぞれが象徴する"本質"を持って生まれてきた(神に創られた)、何らかの意味を持って生まれてきたのだと教えられるのでしょう。
そう教えられているけれど、「いや、創造主なんていない。我々は意味もなく生まれてくる」というのが実存主義なのでしょう。
「生まれてきたことに意味なんてない」
「自分の人生にも意味はないように感じる」
「じゃあ俺はどう生きていけばいいのか」
思えば、この映画の主人公Lukeは無意味な事ばかりやっています。
パーキングメーター壊して刑務所に入れられる。
ゆで卵を50個食べて倒れる。
何度も脱走を試みては捕まってボコボコにされる。
看守に目をつけられ、自分で掘った穴を自分で埋める、を延々やらされる
(これ、ドストエフスキーが『死の家の記録』で語ったという拷問じゃないですか)
Lukeはありとあらゆる作られたルールに反抗します。ルールに従っていれば、もっと楽に生きられたはずなのに何故こんなことをするのか。
Lukeは明確な理由を意識して行動していたのではないと思います。
うまく言葉にできませんが「これが俺だから。こうしか生きられないんだ!」って感じでしょうか。
でも、それで結局Lukeはみんなの心に残るんですね。
「生きる意味なんて決めてもらうものじゃない」
「クズみたいな世界とも戦ってやろうじゃないか。Lukeみたいに笑ってね」
そんな思いにさせてくれる映画でした。